2006/10/9  11:53

翻訳:ロシア人ジャーナリストの疑惑の死  分類なし
「A suspicious death in Russia」
10/7日(土)、ロシア人ジャーナリストの(48)が射殺された。アンナ・ポリトコフスカヤは信じられない程勇敢であり、鋭いペンと強靱な精神により、気味悪い戦争と這い広がる独裁を報道していた。
彼女がウラジミール・プーチン大統領の誕生日に殺害された事は恐ろしい偶然の一であるかもしれないが、彼女の友人と支持者のほとんどは、彼女が血塗られた指導体制と呼ぶ政権によりロシアの取った不吉な方針転換についての、彼女の頑固で暗い報道が、モスクワの彼女のアパートのエレベーターでの殺害に至ったと疑わない。


ポリトコフスカヤ女史のジャーナリズムは特別だった。モスクワの状況を伝える無駄話が多く媚びた、そして事故満足のエッセイのためではない。
または現在、ほとんど注意を引かない程度の普及でしかない、支払の良い記事広告のためでもない。彼女は無限の忍耐と強固な決意で、チェチェニアの破壊された村や粉砕された都市から報道し、誰とでも話をした。
彼女はチェチェン人反逆者を感傷的に見ず、そしてロシア人の徴集兵をまとにな装備も食事も、そして指揮もなく、チェチェニアの生半可な独立をつぶした悪霊として描写しなかった。

彼女は軍事の死体公示所で、軍の冷淡と無能のユニークな結合の結果に抗議する事もなく、無惨な姿で無名で軍事死体公示所に横たわるロシア兵の遺体の中から、彼女らの息子の死体を見つけようとする軍人の母親と話した。
彼女は、親類縁者が拷問、切断、レイプ、および殺されるために悪名高い選別キャンプに姿を消したチェチェン人と話した。
どんな国からであれ、そんな事をしたジャーナリストはいない。1999年に始まり今なお燻る第2次チェチェン紛争は、北コーカサス山脈の領土の山がちな区域を、ジャーナリストに地上で最も危険な場所にした。

ほとんどのモスクワを拠点とする記者は、全くでないとしても、滅多に行かず、それも日中のみで十分な警護を付けてだ。ポリトコフスカヤ女史はおよそ 50回も訪れ、しばしば一度で何日も滞在して、平気であった。
チェチェン人、および多くのロシア人が彼女を崇拝した。時に彼女に情報提供しようとする人々から、よりしばしば彼女の助けを必要とする人達から手紙の山と電話が絶えまなく来た。
彼女は誘拐犯を取りなす事ができるか? 愛する者を探す事ができるか? 彼女はいつも彼女にできる事をするため"やってみる"と言った。

彼女はこれらに責任がある戦争を嫌った:短期の準独立時にチェチェニア統治に失敗した軍閥、紛争を利用したイスラム過激派、ロシア人のとんまと将軍達、および地元の協力者達。
彼女は特にロシアが誘拐により支援して設置したチェチェン政府を、再建資金の大規模な略奪ゆえに軽蔑した。彼女は、チェチェン紛争の最も悪い影響はロシア自体の腐食だと判断していた。
ロシア全土からの彼女の報道は、多くの者が不公平で荒涼と認識している彼女の母国の姿を伝えた。彼女は、プーチン政権が全く残忍で腐敗していたと柔らかくて平凡な声で言ったろう。彼は、現代の姿で蘇った、過去のソ連の最悪の悪魔を代表している。

彼が権力の座に就くため数百人が死に、それはやがて来るファシズムと戦争の前触れであった。NATO加盟を望むグルジアへと向かったロシアの執念深い激怒における今回の捻れは、彼女の悲観主義をより極端とは見えなくさせる。
グルジア姓を持つロシア人は、同様の立場にあるチェチェン人達が過去10年間苦しんできた官界からの何らかの応報の類を現在、経験している。
ポリトコフスカヤ女史は多くの殺人予告を受けた。1度ならず、ロシア人特種部隊は彼女をレイプして殺し、彼女の身体を溝に廃棄すると脅かした。その都度、彼女はそしらぬふりで彼らと話した。

2001年、ロシアを去るか死かという直接の警告を受け取った後、彼女はオーストリアに逃げた。2004年、彼女は北オセチア共和国の町ベスラーンの学校篭城事件で、人質を取ったチェチェン人とロシア軍と和解を仲介しようと向かう途中、毒を盛られもう少しで死ぬところであった。
しかし10/7日(土)に彼女のエレベーターに入った者が誰であれ、彼女に警告するのではなく彼女が提示する問題に終止符を打つ意図を持った専門家であった。
彼女は身体と頭をそれぞれ1度撃たれた;ピストルはマカロフ、暗殺者の御用達だ。それは彼女の横に残されました:こうした処置では、武器は1度だけ使用される。

彼女は彼女の殺人が当局の論理的反応だとよく意識していた。死亡記事執筆者との会話では、彼女より遥かに大きな危険に彼女の情報源にあった言って、彼女はこれを拒絶した。
ちょうど歌手が歌い医師が治療せねばならないのと同じように、ジャーナリストにはたとえ何があっても重要な出来事を報道する義務があると彼女は言った。

ポリトコフスカヤ女史がどこへでも行く事は、彼女の相手をする事が容易である事を意味しなかった。扱った話への大雑把な話と複雑な詳細、双方に対する彼女の嗜好は、時々、会話を重たくした。彼女はいかれていてかつ一途であった;また無気力にもなりえた。
しかし彼女は言論の自由と公共心の、悩ましい大義の殉教者という事になるだろう。ロシア人が彼女の例を見て奮い立つ思うのは楽しいかもしれない。悲しいが、彼らはたぶん、不人気な話題をはっきり口に出すのは避けるのが最良と結論するだろう。


For your ref.>「翻訳:シャミル・バザエフの死

>「<女性記者射殺>プーチン政権への批判高まり必至

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