2008/5/13  23:55

エスケシュの作品に寄せて  色彩的論文

エスケシュの作品に寄せて

伊東光介

題材:ティエリー・エスケシュ:オルガンと管弦楽のための協奏曲
第一楽章 Allegro moderato
第二楽章 Adagio
第三楽章 Vivacissimo

 私がこの作品を論じるに至った経緯は、私の友人である大平健介君が、5月22日に東京藝術大学の奏楽堂にてこの作品をオーケストラと共に演奏するというご報告のお陰であり、これはその喜ばしい事柄に対する、私からのささやかな贈り物としての言葉の花束である。とはいえ私がここで出来るのは単に、この作品を私の視点で論じることだけである。であるからこれが、彼への贈り物になるかはわからないが、少しでも何かの役に立てればと思い、誠意を持って論じようと思った次第である。この文章を読んでくださる人達にも、少しでもこの作品に興味を持っていただけたら、なおさら幸いである。
 ある日の夜、私は不思議な体験をした。その日上野を歩いていたのだが、街の中で偶然にもエスケシュの作品を聴いたのである。それはどこかのお店のスピーカーから流れていたわけではないということはすぐにわかった。何とそれらは、立ち並ぶ車のクラクションの音だったのである。しかしそのクラクションのリズムと音の重なりは、まさしくエスケシュのこの作品の三楽章のクライマックスに酷似していた。私はまるで時が止まったような感を抱いた。それと同時に私の頭は、足りない声部を補うかのようにそれらと対話していたのである。エスケシュは、フランスでこのような光景に出会ったのであろうか?
 1965年生まれのエスケシュはパリ音楽院に学び、8つ(和声、対位法、フーガ、オルガン演奏、オルガン即興演奏、アナリーゼ、作曲、管弦楽法)の一等賞を得て卒業した。1992年より20代半ばでパリ音楽院の教授に就任、1997年よりデュリュフレの後を継いでパリの聖エティエンヌ・デュ・モン教会のオルガニストを務めている。日本ではあまり知られていない(オルガン界では有名である)が、言わずと知れた即興演奏の名手であり、オルガニストとしても作曲家としても現代に生きる、まさしく天才なのである。
 1995年作曲のこの作品は、音使いとして全体を通し多調的な要素が見られる。圧倒的な音量効果により、全体的に派手であるが、同音連打、多調からクラスターに至るまでの和音群と線的な旋律、一定のリズムと加速されていく同音連打などそれらが楽器ごと、場面ごとに役割がきちんと整理されている。そのために譜面は至ってシンプルである。一つ一つの線が重なり合っていくオーケストラと、圧倒的な存在感のオルガンによる対話は、多様な緊張感を作り出していく。重厚な和音の塊と様々な線による経過、その中でオルガンは時にリズム的、時に音色効果、時に無窮動的な背景とさえなる。そこには様々な演奏技術と引き出しが要求される。
 しばしば現代に書かれた作品は譜読み=演奏の完成とされるが、この作品においては決してそんなことはない。この作品は古典的な2管編成で書かれており、非常に限られた中での工夫が多く見られるからである。私の見解としてはこの作品を演奏するにおいて、例えばイネガル奏法などのフランス古典音楽特有のセンスが必要に思う。なぜならば、至る所に小節という枠組みにはめ込まれた自由を要求している音のパーツが見られるからであり、それらは楽譜に描かれてたまたまその場所に組み込まれたと言わんばかりである。自由な解釈と寛大な心なくしてはこのパズルは完成されない。つまり感覚としてこの作品を消化することが大切であり、オーケストラに耳のみに関わらず全身で反応していかなければならないのである。
 この作品で最も私の興味を惹いたのは、一楽章の絶え間ない同音連打についてである。その同音連打をエスケシュは1,音高の変化、2,音色の変化、3,奏法の変化、4,音高の変化により和音内の低音として、5,内声として、6,高音として、それぞれ役目を巧みに変化させている。同音連打という変化しない素材に対して、多様な変化を全体に仕掛けていくという、この矛盾が一楽章の独特の魅力を生んでいる。その中でいくつかのモチーフが、それらも変化して進んでいくのである。一見めまぐるしい音楽に思われるが、その同音連打の役目の変化はゆっくりである。速度的に早いこの音楽のしかも同音連打という、本当の速度よりもさらに加速して聴こえさせる効果があるものに対して、それをゆっくり変化させるという、ここでも矛盾が生じているのである。つまり彼は、ニ重の矛盾(仕掛け)によりこの楽章を作り上げているのである。
 それが終わると、二楽章はまるでこの音楽全体を聴きながら歩いている人物(作曲家)の気分を表現主義的と即物主義的な二面性の立場にて表しているかのようである。ここでは一楽章で見せた二重の仕掛けが、二重の感情として対比しているように思われる。音を情緒豊かに表現すると共に、それを冷静に客観的に眺めるようなそんな表現が要求される。それがまさしく二楽章の最後に現れているのである。最後の和音がイ長調の主和音を奏でながら、オルガンの右手のみが非常に高い位置のFを奏でているのである。つまり“La,Do#,Mi”の和音の遥か上で“F”を奏でているのである。それらがどれほどの効果を生んでいるのかぜひとも聴いていただきたい。繊細にまるで怯えているような感情と、冷酷に嘲笑っているような感情の二面性を垣間見ることが出来るのである。これもまさしくエスケシュが意図した仕掛けであると私は思う。
 三楽章は3連音符による無窮動の音楽。一楽章で見せた絶え間ない同音連打という素材をここでは絶え間なく続く無窮動という素材に変化させている。めまぐるしく変化する素材を変化させていくという仕掛けによる音楽である。再び姿を現す同音連打(同音連打のみに関わらず全ての素材は再び三楽章で現れる。)も3連音符となって音楽を急き立てる。一楽章にもしばしば見られたが、規則的に動くもの(一楽章では同音連打)にずれて入ってくる、加速する(加速して減衰してまた加速するものも含む)同音連打やモチーフは非常に効果的に聴くことが出来る。様々な過程を経て、和音群すらもう線(太い線)の一部となってオーケストラの中に溶け込んでいく。最後にはオルガンとオーケストラの立場は逆転し、横の線を無窮動にかけめぐるオルガンと、縦の線を圧倒的な音量でリズム的に奏でるオーケストラのトゥッティ、その中で演奏者自身も一つの線として消化していくだろう。それが聴衆を引き込むことへと繋がり、いつしかその聴衆さえ、一つの線(大きな和音の塊)となって音楽の中に一体化されるのではないだろうか。その先に待っているのは“昇華”である。私は精一杯の祈りを込めて、この論述を閉じたいと思う。



2008/5/21  23:03

投稿者:光介

ありがとうございます。
あぁ、、、そのようにおっしゃっていただき、恐縮でございます。。。
これからも頑張って書かせていただきます。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします!!
ありがとうございます☆

2008/5/18  9:54

投稿者:M.T.

エスケシュについての論述を拝読いたしました。この作曲家のことを知らなかったのですが、特に即興演奏に秀でているということに非常に興味をもちました。にしても、適確で饒舌な解説は音楽学顔負けです。やはり音楽を創っていく人が一番音楽に近い・・文章というのはそこから出てくるものなのですね。論述シリーズ、おもしろいので今後も書いてください!

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