2008/9/26 4:21
内的聴覚 即興演奏研究所
絶対音感という外的に対する聴覚の俊敏な反応は、過去から現在、そして未来の有望な音楽家達によって今後さらに構築されていくだろう。個々の能力として、俊敏性と果てしない無限時間の記憶力(持続性)という、まさに一瞬の点と無限の線とによってそれは音楽にとって完全とも言える状態なのである。また、それによって作られ、これからも作られていくであろうその歴史は、無限とも言える線であり、個々という点と歴史という線、これらが二重の対比を見せているのである。
しかしながら、私が今現在それ以上に研究対象として念頭にあるのが、内的聴覚における主観的観点を客観的観点に変換させようという無意識のプロジェクトである。外に存在する音を聞く外的聴覚に対して、内に存在する音を聴く内的聴覚は、その音が内の中にあるために、それは聞こえないのである。言わば聞こえない音を聴くという、矛盾のプロセスによって、成り立つものなのである。それでもその音は聞こえないというだけであって、存在しないという訳では決してない。であるからそれは、想像するということではない。
例えばある音楽を聞いて、その音楽が頭から離れないということがあるが、これが実は内的聴覚という概念の始まりであると私は考えている。なぜならばその現象において、音楽が完全に頭の中で再生されているということは、個々の記憶力や音楽における能力に関わらず、100%ないと言えるからである。聞いた音楽を自己の中で再び聴こうとする。それが無意識に行われていくのである。それはある箇所で途切れたり、無造作に移動したりする。たくさんの矛盾が、その再生される音楽そのものにも現れるのである。無意識に出現した音を意識するという矛盾のプロセスが、ここにも存在する。こう考えていくと、内的聴覚というものは、音楽という大きな世界それ自体の始まりと言えるのではないだろうか。
しかしながら、私が今現在それ以上に研究対象として念頭にあるのが、内的聴覚における主観的観点を客観的観点に変換させようという無意識のプロジェクトである。外に存在する音を聞く外的聴覚に対して、内に存在する音を聴く内的聴覚は、その音が内の中にあるために、それは聞こえないのである。言わば聞こえない音を聴くという、矛盾のプロセスによって、成り立つものなのである。それでもその音は聞こえないというだけであって、存在しないという訳では決してない。であるからそれは、想像するということではない。
例えばある音楽を聞いて、その音楽が頭から離れないということがあるが、これが実は内的聴覚という概念の始まりであると私は考えている。なぜならばその現象において、音楽が完全に頭の中で再生されているということは、個々の記憶力や音楽における能力に関わらず、100%ないと言えるからである。聞いた音楽を自己の中で再び聴こうとする。それが無意識に行われていくのである。それはある箇所で途切れたり、無造作に移動したりする。たくさんの矛盾が、その再生される音楽そのものにも現れるのである。無意識に出現した音を意識するという矛盾のプロセスが、ここにも存在する。こう考えていくと、内的聴覚というものは、音楽という大きな世界それ自体の始まりと言えるのではないだろうか。
2008/9/27 0:39
投稿者:光介
2008/9/26 13:31
投稿者:白と黒
私がお風呂でいい気分で鼻歌を歌うとき
ピアノに向かわずに、なんとなくぼんやり
まだおたまじゃくしを書き込む前の五腺紙にむかうとき
なんとなく、友人たちと雑談しているとき
必ずしも平均律の音でだけでなく
それはかえるの鳴き声っぽいものまで
なんとなく ふっと沸いてきたりしているもの
----------そういうものをさしているのかな??
ピアノに向かわずに、なんとなくぼんやり
まだおたまじゃくしを書き込む前の五腺紙にむかうとき
なんとなく、友人たちと雑談しているとき
必ずしも平均律の音でだけでなく
それはかえるの鳴き声っぽいものまで
なんとなく ふっと沸いてきたりしているもの
----------そういうものをさしているのかな??

はい、その中にきっとたくさんの可能性がひそんでいて、
それを見つける旅は、とても楽しいのでしょう。
そこに音楽があるということ、それは本当に素晴らしいです!!!