2008/10/2  3:38

即興演奏の可能性  即興演奏研究所

即興演奏の可能性1 

伊東光介

 私が音楽という分野に関わることにおいて、一番心苦しいことの一つは、音楽を専門に勉強していくことを目指し、せっかく音楽大学に入ったのに、激しい競争の中で最悪の場合ノイローゼになってしまい、結果として音楽を嫌いになってしまったというケースがあるということである。
 私が音楽を考えた場合に、音楽をやるというそのことのみにおいて、辛いという思いは極力してはならないと思っている。努力するということと、苦しむということは、音楽においては全く違うと考えるからである。音楽は、苦しいと思った瞬間に、もうそこに音楽は存在しなくなってしまうような気がしてならない。音楽とは、常にそこに音楽がなければならないものであり、それは一瞬たりとも離れてはいけない。音楽が何なのかと考えた場合に、それはまさに「音を楽しむ」ものであり、非常にシンプルなものなのである。
 しかしながら、音楽というのはたくさんの作曲家たちによって隠された(構築された)それぞれのコード(例えるならばダヴィンチコードみたいなもの)があって、それらは計り知れない。そのことによって一見複雑化して見えるが、音楽自身がシンプルであることには変わりない。それらのコードは、知っていても知らなくても楽しめるべきものが音楽本来の姿である。なぜなら音楽は聴くためのものであるからである。音楽を深めるということは、歴史的背景などの知識を得るということではない。その結果として、音楽をより自分自身が楽しめるかどうかということである。音楽にとって、歴史や理論を知るという事は、例えば日常の新聞やニュースを読むことと変わらず、なんら特別なことではないのである。
 人生という道程の中で、様々な経験を乗り越えて、それらが音楽に反映するということは、とても素晴らしいことであるが、音楽の中で苦しみもがき、それを乗り越えなければならないというのであれば、それはとても痛ましいものである。音楽に無限の可能性はない。音楽という枠の中に収まるはずがない。無限の可能性を秘めているのは、いつでも人間のほうなのだから。



2008/10/5  0:42

投稿者:光介

素晴らしい本をご紹介くださってありがとうございます!!
僕なんかは、まだまだ未熟者ですし、コールマン女史のような音楽に対する深さの足元にも及びませんが、、、。
いつでも音楽というものを、考え続けていきたいです。
今は考えるより先に、音が先行してしまいます。。。



2008/10/2  21:38

投稿者:白と黒

私がいま読んでいる本「音楽教育の理論と歴史/河口道郎著/音楽の友社」のなかに
なかなか興味深い本が紹介されていますね。
アメリカの
Satis.N.Colemann(1878〜1961)の
「子どものための創造的音楽/Creative Music for Children 1922」
ですが
伊東さんがご指摘されている内容と近い印象をもちます。コールマン女史もよくある従来の音楽教育〜学習の過程で情熱を失い、音楽表現の喜びを味わう前に諦める姿を多くの子供に見てきたようですね〜
女史自身は子供たちに対して
自由さを基盤に置いた音楽教育の実践〜主に対話の中で始まる歌や簡単な器楽の即興〜をかさねる中で「子供の作品のなかに子供の人格がいかに表現されるかを知ることは面白い」という感想をもつに至ったようですね。

原著があればいまはとくに読んでみたいですね〜
楽器の操作能力という技術面の訓練に私自身、メゲかけていますからね〜
歌いたい自分の感情が宙にうきそうだ〜


コメントを書く


名前
メールアドレス
URL
コメント本文(1000文字まで)


RSS1.0