2008/10/5  23:50

即興演奏の可能性  即興演奏研究所

即興演奏の可能性2

伊東光介

 音楽を一つ知ることで、例えばその前の段階を認めることが出来なくなったとしたら、それは前の前の段階へと後退してしまったと言える。しかもさらに悲しいことは、そのことにさえ気付かないということである。音楽家は、常に音楽を考えていかなければならない。
 音楽を知っていくということは、音楽に対する理解が大きくなっていくことであり、否定していくということではない。否定するということは、可能性が一つなくなるということであり、それはつまり無いということになってしまう。ある作品を非常に熟知しているとして、その結果として自己の考えを押し付けてしまい、それ以外を否定してしまうのであれば、それは一つの可能性しか提示出来ないということになる。
 即興演奏というものが、常に音楽の一つの窓口としても開かれているならば、それは非常に有益なものである。音楽を始める時、または再び音楽を始める時、それはいつでも広く出迎えてくれるのであるから、それはつまり音楽において、自己を客観的にとらえていく行為であり、しかもそれは無意識的に行われていくものなのである。こう考えると、即興演奏というものは一つのそういったエチュード(練習曲)になるのである。身体的な、そして精神的な意味でのそういった練習を、いわゆる音の遊びとして体感出来るのであって、即興演奏の可能性は、教育的、療法的にも大いに期待できるのである。さらにそれは応用力へと進化する。
 パフォーマンスとしてだけでなく、自己の広い意味での練習、そして教育や療法としてのある種の対話として、さらには音楽を違う角度からとらえることの提示としても可能性を秘めている。即興演奏は、何かを生み出すという創作性、何かに反応するという対応性または順応性、そこにおける俊敏性、それをまとめていく統一性または構築性、様々に変化していく多様性といった、ここにあげることの出来ない性質たちを瞬時にかつ凝縮された、非常に濃いエッセンスを含んだジャンルなのである。



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