2008/3/2  1:28

春花の南房総、観光ちらしずし!  Minami Boso

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「南房総 花の風が吹く半島」

 風が頬に心地良いと感じるのは、冴え冴えとした青い海があまりにも眩しいからでしょうか。
東京で空っ風に吹かれ、コートの襟もとをきゅっと締めたままあわててバスに乗り込んだのはつい1時間前。
東京湾の海底を通じ房総半島に繋がるアクアラインを抜ければ、太陽の光が薄皮を一枚剥いだようにあでやかに変わっているのに気がつきます。
そして、木更津から徐々に南下するにつれ、窓の外の柴犬の背中のような色をした日向枯れの風景の中に、少しづつ緑の量が増える。

房総半島をもっと南へ、南へ….。

断崖絶壁が立ちはだかる鋸山のトンネルを抜ければ、そこはもう春。
かつての安房の国、南房総の入り口です。

「昔ね、四国の阿波から忌部氏という一族が黒潮に乗ってこの地に上陸したんだよお。ああ、そのあとも紀伊半島やら伊勢からここにやって来た人が俺たちの祖先だっぺ」
漁師さんたちは板子一枚下は地獄といって、人の命をたやすく奪う海という存在から人々の糧を得るのが仕事。どこか潔さがある一方でとても温かい人が多いのです。
おしゃべりの時の声も、船の上で一刻を争う仕事のせいかかなり大きい。そんな大らかで威勢のいい人々の気質はどこか南方的に思えます。

海の中にもはるか黒潮に乗ってやっていたコバルトブルーの熱帯魚たちが泳いでいます。
東京湾の南はなんと珊瑚の北限という土地柄。
熱帯魚たちは、夏に黒潮に乗って南からやって来ては水温が下がる冬を越せずに海に帰す「死滅回遊魚」という縁起の悪い名で呼ばれています。
でも、温暖なこの地の入り江の片隅には、その輩たちが越冬しているという噂も…..。

どうやら私自身、その魚ではありませんがこの地に流れ着いたらしいのです。
そして、はたと気づいたら、ここに暮しはじめてもう9度目の春になりました。まるで浦島太郎のようですね。
季節ごとに違う顔を見せる自然に驚いているうちにあっという間に月日は経ってしまったのです。

メガポリス東京のすぐ脇にありながら、海に囲まれた大きなひとかたまりの房総半島は、アフリカ大陸の縮小版のような型にも見えます。土着的な匂いが残るなおおらかさは、同じ半島でありながら三浦半島や湘南と違い、ネイティブ度の高さ。日々大地の手入れをし、お天道様と土と、青い海の恵みを頂いて暮らす土地、それが南房総。地に足のついたこの豊かさを、訪れた人々ともっと共有できれば嬉しい、と思うこのごろ。


「お花畑」
東京から1時間半あまり、南房総の日々はうららかな南国時間がたゆたっています。
たぶん、南房総へ降り立った瞬間感じることは、すごく遠くへ来たような、アウエイな気分になることでしょう。その遠さに安堵を感じるか、もしくははたと不安を覚えるか、それは様々。でも旅とは異質な時空へ移動すること。ということは東京の隣の県である安心感と、異文化感を味わえるということでかなり高得点の旅だと言えるでしょう。

さて、そんな南房総の魅力を一言で、と問われ、思いつく言葉はひとこと。
「ちらし寿司」みたいなところとでも表現したい。
ちらし寿司といえば、春の節句や子どもの頃のお誕生日会に欠く事ができないあれです。
黄色の錦糸卵にピンクのでんぷ。白くつややかなすし飯に混ざったいく種もの具が箸を運ぶたびに違うブレンドで口の中で味わえます。すし飯の爽やかさとほの甘い後味。女性なら老若かかわらずに好きなのはなぜでしょう。寿司職人が作った研ぎすまされた握りにも感動の味がありますが、ちらし寿司にはまた別の、母の手のぬくもりが感じられるような和みの味わいがあります。具を調理した匂いが残る家の中で、でもちょっと花でも活けてちらし寿司をいただく時のほっと和む瞬間。南房総の春の日には、そんな日常の美があるのです。黒潮の流れに洗われている半島の風は、どこにいても柔らかな湿り気を帯び、きーんと乾いた風ではありません。いち年中が常春とでもいうような、冬は温暖、夏は海の冷却作用によってほどほどの暑さ。うららかなお日様が錦糸卵のように降り注いでいるのです。

南房総には、世界遺産とか、どこかの国を模したテーマパークといった景勝地はありません。
もちろん、そういう場所はそれなりに選考され指定されるだけの価値のある場所です。

が、そこにはたいがい大勢の人々が押し寄せていて、「ああ、ここテレビに出てたところ!」とかもうすでに映像で見ているのではじめて行った場所にもかかわらず、既視感があったりするのでした。
私にとってこんな旅が強く心に残っています。
それは、自分で発見する喜びが多かった旅です。
なんの前触れもなく突然開けた場所へ出て、そこで出会った夕日が大きかったこと。
もしくは、思いも寄らず道を訪ねた地元の人が親切だったりして、その一日を一緒に過ごす事になっりと…。
期待していなかった風景や人に出会った思い出は、たとえその風景や人にブランド名がなくても、空気感や色や匂いが、高揚した気分とともに鮮明に蘇ってきます。

南房総の魅力というのは、ちらし寿司のひと箸ごとの味わいの中に、期待もしていなかった具の組み合わせが入っていたりするときの喜びに似ているのかもしれません。
 
外房の太平洋側から内房の海まで車を走らせて約40分。もしくはのんびり各駅停車の電車に乗り込んでの旅もおすすめです。猫の額のような畑には農作業の一息を入れているおばあちゃんたちが背負い籠下ろして太陽に暖められた土のうえでおしゃべりしていたり、どこかアジアの遠い国に迷い込んだよう。
また10分車で走ると、青くきらめく館山湾のむこうに富士山がくっきりとあってびっくりしたり。
そしてまた10分後には色とりどりのポピーが風に揺れ、風もこころなしか香ってきます。

「ここはいったいどこ?」
と変わる景色に脳をシャッフルされる感じです。
お腹が空けば、やはり海の幸。ちょっとご飯が多めのしっかりした握り寿司や、夏に捕れた鯨も名物。
え?東京のとなりで今も鯨を捕っているって、知らない人も多いと思います。夏に回遊してくるツチクジラという種類の鯨を和田浦の港で小さな船2艘で限られた頭数だけ捕獲、解体し、地元の方々の故郷の味として親しまれているのです。ネイティブ度が高いこんな食文化もここならではのもの。

さて、お花畑に目を移せば、春の花売り娘ならぬお母さんたちがいます。
「この花たちはね、夏の終わりに稲狩り終わった田んぼに苗を育てて植えるんですよー。夏から花の苗育てて準備ですよお。だからきれいに咲いてくれると嬉しいねえ」
房州のお母さんたちは働き者です。
以前、東京の電車の中で行き会ったことがある、重い背負い籠に野菜や干物を詰めていた行商のおばちゃんたちを思い出します。わたしの朝の通学時間に出会うということは、おばさんたちは世も明けていない時間に準備をして家を出てくるという事なのだなあ、と漠然と思っていたあの頃。
あのおばさんたちは、一年を稲作と花と、小さな畑の手入れをしながら漁師のお父さんを支えて暮らしていたのでした。そうして守り、作り続けられてきた可愛い景色たち。

大規模農家が作った工場のような畑とは違う、まさに母の手作りのちらし寿司のような味わいのある景色。その趣きが南房総の大きな魅力になっているのです。
かつて江戸の台所として幕府の食物を産出していた温暖な土地。
海の幸、山の幸、ぽこぽこした低い山々には夏みかんがたわわに実っています。
 
西の東京湾が夕日で金色に染まる頃、東の水平線からまんまるに大きな満月が昇ってきます。
海は月に照らされ、群青の中に一筋の白い光が道のように水平線から浜辺まで続いています。

鯨の潮吹きが見えたような、イルカがジャンプしたような。

すぐそこに在るこの海の中には、日々懸命に生きている野性の生き物たちも暮らしています。
星降る夜の、この暗さも南房総の味わいのひとつ。日本という国や地球すら越えて、宇宙と繋がっている実感が天から降り注いでくるようです。

「ここは、どこ?」
「ここは地球という星のうえ」
身近なものから宇宙まで、南房総の魅力は、多種多様なお花畑のように、もしくは星空の名も無き小さな星のきらめきのような味わいなのでした。**









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