2008/5/7  23:00

引き際の美学―続―  人生論

本来の引き際の美学は今まで一途にやってきたことが、知力、体力ともに限界に達してこれ以上、自分の信じる所の道を進めなくなった場合に潔く引退すると言うような意味があったと思います。未だ野球選手としては充分やれるのに、自分の目標としていた数値を残せなくなった時に、引退して自分を解放するような意味もあるかもしれません。形だけは身を引いたのに、何時までも旅人を続けるような人もいますが、煮え切らない自己を示しているようなものです。
最初から信じる道も歩かずその努力もせず、社会に示す功績や自己の満足感も無い引き際の美学は在り得ません。その点で自分も社会も納得させえる引き際は難しいと言えます。駆け引きが表に出ると美学とは言い難くなるからです。

2008/5/7  0:10

引き際の美学  人生論

 桜は美しく咲いて、潔く散ります。その花の美しさと共に散り際の美しさも昔から日本人に愛されてきた所以です。今も企業などのトップが業績不振や不祥事の責任を取って潔く辞任するという習慣も残っています。しかし、問題の本質を掘り下げることもなく、事件を有耶無耶にするという側面もあるようです。問題がマスコミなどにより顕在化するまでは隠し通し、それが世間の知る所となりトカゲの尻尾を切るだけでは済まされなくなった時に、トカゲの頭(?)を摩り替える手法では、見かけの引き際の美学にすぎません。  
これが政治の世界となると、最近は引き際の美学どころか、醜態を晒すことが多いような気がします。政権を投げ出した元首相、国民からの支持が1割代に落ち込んだ首相、美学とは程遠い世界です。独裁政治の時代なら兎も角、民主主義の時代、政治は社会との共同行為の筈です。世論に耳を傾ける能力の無い人達は引き際も分からないということでしょうか。

2008/5/6  14:25

パンダと希少動物―続―  政治

皮肉な事にパンダは中国の環境破壊などによりその数が減っているが故に、その希少価値が上がっています。また希少動物である為に政治的に利用されるようにすらなっています。中国政府により外国への輸出は禁止され、貸し出される方式が取られています。さすが共産主義の唯物主義からか、抵抗もなく貴重な物のように扱われ、国家で管理されているように見えます。そして外交上の懐柔手段としても使用されようとしています。日本政府は上野公園の死んだパンダの代わりにつがいのパンダをレンタル料1億円で交渉中との事、一方は毒入りギョウザ事件やチベットの虐殺などから日本人の目を逸らそうと画策し、一方は国政の失策を少しでも覆い隠そうとする茶番に見えます。希少動物を政治に巻き込むこと事体が動物愛護の精神に反し間違いなのです。

2008/5/6  2:19

パンダと希少動物  政治

 東京上野動物園に居たパンダが亡くなりました。アマゾンイルカ、ホッキョクグマ、ケープペンギンなどと共にパンダも絶滅が危惧される希少動物です。既にアフリカゾウ、ホッキョクグマやライオンも希少動物になっています。
 何故希少動物が生まれるかと言えば、人間による乱獲や開発や戦争による環境破壊などです。また皮肉な事に数が減少してその動物が珍しくなると、希少価値が上がり、更に乱獲されて数が減少します。希少動物を作り出しているのは人間のエゴそのものなのでしょう。パンダなど希少動物を檻に入れて見に行くなど、本来は動物愛護の精神に反する筈です。

2008/4/30  15:48

デジャヴ (déjà vu)―D―  心理学

こう考えると子供の時の体験や見た光景は断片化されて記憶の末端に残り、何らかのきっかけでデジャヴとして蘇えるとも言えそうです。子供の頃の記憶は何度でも蘇えり、それが既知のものとして現実の安定した世界観を支えているのかもしれません。幼児期の体験から、この世界に自分は望まれてきたのか、そうではないのかを自覚すると言われています。親に虐待されて育った子供は親になっても自分の子供を愛せないとも言われています。記憶はその人の人生さえも決定ずけてしまう側面もありそうです。
 デジャヴに代表される曖昧な記憶も人間の心の奥底では重要な役割を果たしている可能性もあります。最近の陰惨なテレビなどのニュースを子供が見ないようにしている親が多いと聞きますが一つの方策なのかも知れません。

2008/4/29  0:40

デジャヴ (déjà vu)―C―  心理学

視覚的な記憶を総て記憶することは記憶の容量が膨大になり、脳の記憶容量を超えてしまいます。また重要ではない事を記憶しておくことは脳の限られた機能から見て不経済です。仮に記憶された情報も引き出されないと少しずつ削減されているのかもしれません。パソコンのハードディスクと同じように容量が限られている状態では、新しい事を記憶するには古い記憶を消していかなければなりません。しかし完全に記憶は消えるのではなく、断片化して残っている状態であれば、似たような光景に出会う時、その消された記憶が少し再現されて既知感として認識されるのではないかという事です。未だ自我も確立しない子供の時の光景もそこに含まれているかもしれません。それが美しい光景であれば良いのですが、それは親が努力すべき事です。


2008/4/27  12:27

デジャヴ (déjà vu)―B―  心理学

 車などを使って毎日通勤している道筋にある日大きな看板が立っている事に気付いたことがあります。その看板は随分と以前から立っていた筈です。特に運転中などは見る視界が限られていて、毎日見ている筈の光景も一部しか見ていなかったのでしょう。見ていると言うことも実は怪しいものです。しかし毎日の光景の中で不可知論に陥らないのは「既に知っているもの」を「見ている」と思っているからです。
デジャヴを実験などで証明をすることは難しいとされますが、それは私達が網膜に映し出される映像を総て記憶していないことにも関係があるかもしれません。しかしデジャヴ にはこれと違った意味はあるのでしょうか。実際に本当に見たことも無い光景を既知のものとして感じることです。

2008/4/25  14:13

デジャヴ (déjà vu)ーAー  心理学

 日本語で既視感と訳されるこのフランス語は実際に体験したことがないのに、どこかで既に体験したような感覚を指しています。フランスの超心理学者エミュール・ブラワックが「超心理学」の中で提唱した考えです。一般的にはどこかで確かに見た覚えがあるが、何時、何処でのことか思い出せないような感覚で用いられる事が多いようです。
私達は昔の光景や場面を、現在に起こったかのようにはっきりと思い出すこともできますが、その視覚の記憶は特に印象が深いものとして記憶されているからでしょう。時間と空間の連続した記憶がどのような形で、脳内に記録されているのかはトランスミッターシやナプスの変化などまだ良く分っていないようです。脳内の明確な記憶の保存様式も定かではないので、日常記憶する多くの光景や場面は一部の痕跡を残して消え去ってしまうのかも知れません。デジャヴはこうした意識化に沈んでいる視覚的な記憶の断片を、何からの機会に引き当てることかも知れません。

2008/4/19  23:50

絵画の心―続―  絵画

何故かといえばそこに表現されるのは,都市の機能(交通、ビジネスなど)であり絵の対象とは趣きが違うからです。更に絵にならない街は住み心地が良い筈はありませんが、それに気付かない様に見えます。
絵になるような光景の中には、街並みや建築物に歴史や文化という時間が含まれている筈です。逆に歴史や文化を捨て去った都市や地域に心安らぐ絵の心が見出せるかと言えば否定的です。自然は豊かであっても打ち捨てられた過疎の村や地域は美しいとは言えないことと同じです。
現代の東京で絵の心で生きていこうとすると、その中心にそびえる金属の塊、東京タワーはどうでしょうか。周辺に高層ビルが増え、その高さもすでに絶対的な優位を示すものではありません。高層のビル群があまりにも高く無機質なので、そのタワーも少しは有機質に見えるだけの話です。高度成長期の遺物のようにしか見えないと言う人もいます。皮肉を言えば、東京では絵の心が見出され難い街になってしまった反面、世界の美術展を見られる事です。そこは美しい街ではないが、便利な街だからです。

2008/4/17  23:22

絵画の心  絵画

 人間、美しい自然や景色を愛でる気持ちは誰にでも多少はある筈ですが、話が絵を描くとなると少し様相は変わるようです。自然や静物、人物を前に絵を描きたいという気持ちも皆多少はある筈ですが、それを実行に移すには色々条件が考えられます。例えば風景画では日本では先ずパリやローマのように生活の場で絵になる都市、街があるかということです。
先ず日本人はどちらかと言えば都市よりも自然を愛で、その中で安らぎを覚えるようなので、森、湖や山に描く対象を求めがちです。都市、街を描くには国内よりも外国へ出てパリ、ローマなどに行けば、そこには未だ伝統や文化、宗教などの色彩が残っています。
自然を愛でる習慣が逆に日本の近代都市を絵にならない雑多で色彩も形状も統一のない無国籍なものにしている感もあります。勿論そこには官僚などの街造りのプロセスで縦割り行政の弊害などもありますが、タワーや吊橋などで構成される東京湾岸風の光景は写真の対象になっても絵画の対象にはなりにくいものです。そこには絵の心がないからでしょう。

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