2008/5/14 19:58
帰還 写真
故障していたパソコンが戻ってきた。パソコンは家族のものがあれば結局そんなに困らないものだと思ったけれど、やはり自分の部屋にあるとやりやすいな。
ゴールデンウィークには横浜に行った。画像が取り込めるようになったので投稿。もう少しうまく撮れていると思ったのだけど。

いまだに中華街には行ったことがない。
大桟橋が好きになりました。

最近は黒澤明の映画に興味をもったのでよく観ていました。
「羅生門」をテレビで見かけて一部分だけれど面白いと感じたので、借りてきました。ドストエフスキー原作の「白痴」、トルストイの「イワン・イリイチの死」が下敷きになっているといわれる「生きる」という作品。
どれも完成度が高く、黒澤明という人はかなりの知性の持ち主であったのだろうということを思わせる作品ばかりだった。その物語の進め方、人物の描き方などは50年程の時を経た今でも高い質を保っている。
かなり多作な人なので、他にも観るべきものがたくさんある。けれど「七人の侍」の収録時間が長すぎて借りるのをためらったのは仕方がないことです。
今日の音楽:クープラン/クラウザン名曲集
ゴールデンウィークには横浜に行った。画像が取り込めるようになったので投稿。もう少しうまく撮れていると思ったのだけど。
いまだに中華街には行ったことがない。
大桟橋が好きになりました。
最近は黒澤明の映画に興味をもったのでよく観ていました。
「羅生門」をテレビで見かけて一部分だけれど面白いと感じたので、借りてきました。ドストエフスキー原作の「白痴」、トルストイの「イワン・イリイチの死」が下敷きになっているといわれる「生きる」という作品。
どれも完成度が高く、黒澤明という人はかなりの知性の持ち主であったのだろうということを思わせる作品ばかりだった。その物語の進め方、人物の描き方などは50年程の時を経た今でも高い質を保っている。
かなり多作な人なので、他にも観るべきものがたくさんある。けれど「七人の侍」の収録時間が長すぎて借りるのをためらったのは仕方がないことです。
今日の音楽:クープラン/クラウザン名曲集
2008/5/12 23:31
嘔吐 徒然
レンタルが半額になったからか,高校の時に聴いていたサンボマスターの(おそらく)4thアルバムを借りてみた。
相変わらずの技術とサウンドと,そして独特のテンションと高揚感。楽曲的には少し行き詰まりを感じているのかもしれない。けれど,それは同じ路線を貫くタイプのアーティストが一度は通らねばならない道なのだろうとも思う。彼らの伝えたいことはどんな楽曲を用いてもおそらく,確かなこと一つしかない。だから,弾き続けさえすればいつまでも良さを保ちつづけていけるのかもしれない。そして,それが良くも悪くも変わらないということなのだろう。
今日の音楽:サンボマスター/音楽の子供達はみな歌う
相変わらずの技術とサウンドと,そして独特のテンションと高揚感。楽曲的には少し行き詰まりを感じているのかもしれない。けれど,それは同じ路線を貫くタイプのアーティストが一度は通らねばならない道なのだろうとも思う。彼らの伝えたいことはどんな楽曲を用いてもおそらく,確かなこと一つしかない。だから,弾き続けさえすればいつまでも良さを保ちつづけていけるのかもしれない。そして,それが良くも悪くも変わらないということなのだろう。
今日の音楽:サンボマスター/音楽の子供達はみな歌う
2008/5/8 23:55
Otium 徒然
バイトをしていない状態がかれこれ1ヶ月以上になってしまうわけなのだが,この生活はなかなか為になると言うか,とりあえず好きです。
受験期(もう1年以上前なのか)に古代ギリシャの貴族のような生活をしたいと感じていたけれど,今はまさにそれを実行しているのかもしれない。奴隷こそいないけれど,好きな本を読んで,適当に語学やって,ピアノを弾いて,時に遊ぶ。いつもそうだったと言えばそうだったけれど,大学の授業も減ってさらなる解放が許されている。
知らないものを大体全部試してみて,興味の範囲を見定めたいと言うのが,ひとつの目的ではあるのだ。
貯金が尽きていないからまだそんな悠長なことを言っていられるのかもしれない。けれどもう少ししたら,重い腰を上げて何かしら始める予定ではいる。
4月くらいから練習の時にバッハをよく弾くようになった。主にイタリア協奏曲と,インベンションのいくつかの曲。今まではドラマティック・ダイナミックさに欠け,和音の美しさもないと感じていた。けれど,そういう無数の感動を引き起こす要素が足りないにも関わらず,ここまで何かを語っているのかがすごく不思議で魅力的だと思いはじめた。
弾いているのはどれも持っているCDでグレン・グールドが弾いているものだ。(着目した理由も,そもそもこの演奏を聴いたからであるのだが,)この人の演奏は,本当に特別に思われる。何故ここまでの深みを感じて取り出すことができるのだろうと思う。両手のバランス,テーマの移り変わりの流麗さと揺らぐことのないテンポ間が感情を排しているようにさえ思われる。しかし,極端に言ってしまえば,そうすることによって(感情が提示されないことによって)感情が裏づけされている。
サガンの「悲しみよ こんにちわ」を読み終わりそうだけれど,これからもっと好きになっていきそうな作家だと思いました。
今日の音楽はなし
受験期(もう1年以上前なのか)に古代ギリシャの貴族のような生活をしたいと感じていたけれど,今はまさにそれを実行しているのかもしれない。奴隷こそいないけれど,好きな本を読んで,適当に語学やって,ピアノを弾いて,時に遊ぶ。いつもそうだったと言えばそうだったけれど,大学の授業も減ってさらなる解放が許されている。
知らないものを大体全部試してみて,興味の範囲を見定めたいと言うのが,ひとつの目的ではあるのだ。
貯金が尽きていないからまだそんな悠長なことを言っていられるのかもしれない。けれどもう少ししたら,重い腰を上げて何かしら始める予定ではいる。
4月くらいから練習の時にバッハをよく弾くようになった。主にイタリア協奏曲と,インベンションのいくつかの曲。今まではドラマティック・ダイナミックさに欠け,和音の美しさもないと感じていた。けれど,そういう無数の感動を引き起こす要素が足りないにも関わらず,ここまで何かを語っているのかがすごく不思議で魅力的だと思いはじめた。
弾いているのはどれも持っているCDでグレン・グールドが弾いているものだ。(着目した理由も,そもそもこの演奏を聴いたからであるのだが,)この人の演奏は,本当に特別に思われる。何故ここまでの深みを感じて取り出すことができるのだろうと思う。両手のバランス,テーマの移り変わりの流麗さと揺らぐことのないテンポ間が感情を排しているようにさえ思われる。しかし,極端に言ってしまえば,そうすることによって(感情が提示されないことによって)感情が裏づけされている。
サガンの「悲しみよ こんにちわ」を読み終わりそうだけれど,これからもっと好きになっていきそうな作家だと思いました。
今日の音楽はなし
2008/5/6 0:32
もし 文学
最近ぜんぜん書いていませんでした。何かを書いても,途中で意味が無いなと思ってばかりです。今だって,その思いがちらついています。
結局自分は同じことを,違う言葉で言い換えているだけに過ぎないからです。
この後のものは2日前くらいに書いたもの。
ウォルター・ベンヤミンの翻訳についての文章を読んでから寝ようとしたら、眠れなくなった。難解な表現が多く、理解できているのかいないのか狭間にいる感じ。原文を読んだ方がわかることができそうだ。「合目性的的」のような訳は嫌いです。的的というのは、分かりやすい言葉の下で使うのは良いけれど、複雑な文脈の中で用いるのはあまりよろしくないのでは…と。ただ理解できない事からくる当てつけであるかも知れないけれど。
ドイツ語を大学でやっているので、卒業論文、それに附随するゼミもやはりそれを使いたいなと若干は思うのは避けがたいことです。たとえ興味の範囲がそれているということを自覚しきっているとしても。かといって、アメリカ文学のみというのも違うし、まして国文学とかに行ったら酷いことになることは請け合いだろう。国文学で興味があるのは夏目漱石ぐらいだからです。村上春樹は国文学という範囲だけで処理はできないだろうし。
だから翻訳とか、テクストに関することをやれば良いのかも知れないと思った。ベンヤミンも読めそうだし。駄目そうだったら比較文学にすればいいだけのことだ。
今日(5/5)もベンヤミンを読んでいて,いいなと思ったものがあったので載せます。
―何が「解決」されるのだろう?これまでの人生を振り返ると,問題と言う問題は,ぼくらの眺望をさえぎりかねない木立のように,そこに残されたままではなかろうか。その木立をすっかりとり払ってしまうことはおろか,間伐して光を入れることすら,僕らはほとんど考えない。僕らは歩みつづけ,木立を遠く後にする。遠くから見れば,その木立は確かに全部見渡せはするけれども,あいまいな,影のような,そしてそれだけにますます謎めいた,絡み合った様相を呈してくる。―
―…and happy indeed I was, if pleasure be happiness.―
オスカー・ワイルドの"HAPPY PRINCE”ででてくる文句だ。宮廷の中で何も不自由もなく暮してきた王子が,金箔を塗られた像として貧しい人々のいる町を見下ろしていう言葉。もし幸福というものが喜びならば,か。
今日の音楽:サディスティック・ミカ・バンド/黒船
結局自分は同じことを,違う言葉で言い換えているだけに過ぎないからです。
この後のものは2日前くらいに書いたもの。
ウォルター・ベンヤミンの翻訳についての文章を読んでから寝ようとしたら、眠れなくなった。難解な表現が多く、理解できているのかいないのか狭間にいる感じ。原文を読んだ方がわかることができそうだ。「合目性的的」のような訳は嫌いです。的的というのは、分かりやすい言葉の下で使うのは良いけれど、複雑な文脈の中で用いるのはあまりよろしくないのでは…と。ただ理解できない事からくる当てつけであるかも知れないけれど。
ドイツ語を大学でやっているので、卒業論文、それに附随するゼミもやはりそれを使いたいなと若干は思うのは避けがたいことです。たとえ興味の範囲がそれているということを自覚しきっているとしても。かといって、アメリカ文学のみというのも違うし、まして国文学とかに行ったら酷いことになることは請け合いだろう。国文学で興味があるのは夏目漱石ぐらいだからです。村上春樹は国文学という範囲だけで処理はできないだろうし。
だから翻訳とか、テクストに関することをやれば良いのかも知れないと思った。ベンヤミンも読めそうだし。駄目そうだったら比較文学にすればいいだけのことだ。
今日(5/5)もベンヤミンを読んでいて,いいなと思ったものがあったので載せます。
―何が「解決」されるのだろう?これまでの人生を振り返ると,問題と言う問題は,ぼくらの眺望をさえぎりかねない木立のように,そこに残されたままではなかろうか。その木立をすっかりとり払ってしまうことはおろか,間伐して光を入れることすら,僕らはほとんど考えない。僕らは歩みつづけ,木立を遠く後にする。遠くから見れば,その木立は確かに全部見渡せはするけれども,あいまいな,影のような,そしてそれだけにますます謎めいた,絡み合った様相を呈してくる。―
―…and happy indeed I was, if pleasure be happiness.―
オスカー・ワイルドの"HAPPY PRINCE”ででてくる文句だ。宮廷の中で何も不自由もなく暮してきた王子が,金箔を塗られた像として貧しい人々のいる町を見下ろしていう言葉。もし幸福というものが喜びならば,か。
今日の音楽:サディスティック・ミカ・バンド/黒船
2008/4/27 1:44
耽溺 語り
オスカー・ワイルドの「ドリアン・グレイの肖像」を読んで思ったのは、美のための美、芸術のための芸術、そういうものが自分として一番納得のいくあり方なのかもしれないということだった。それは正に唯美主義的な考え方だけれど、自分の音楽や絵画の趣味にはその側面が多くみられることは確かだ。
ピエール=オーギュスト・ルノワールは言う
「私にとって絵とは、好ましく、楽しく、きれいなもの…そう、きれいなものでなければいけないんだ。人生には不愉快なことがたくさんある。だからこれ以上、不愉快なものをつくる必要なんかないんだ」
生きる程に、その言葉の意味を分析し理解する程に、あらゆるものが便宜的なものでしかないと悟る。幸せだとか夢だとか、そういった美しい言葉で醜いものを覆い隠していることが、こんなにも簡単に露見してしまうことが空しくもなる。ひとりで立つことのできない意志が、原動力をもつ言葉をとらえ、その力を存続させる。その言葉が始めは自発的であった行動を次第に規定し始める。そうして人は言葉で表せる成果が欲しくて、本来の目的を見失う。
全ては、意識の訓練でどうにかなることばかりなのではないかと思う。思い込みで世界が動く。自分が興味を「持っている」というのも、「持ちたい」というのも同じ事だ。それはただの前後関係の違いに過ぎない。それに趣向や、適性が加わって方向性が生み出されていく。無から有を生み出すよりはもとあるものを育てていった方が賢明なのは言うまでもなく。
たくさんのことがわかればわかる程に、動けなくなる状態というのがある。まるでチェスのゲームで追い詰められているみたいに。頭の中であらゆる可能性を試してみるけれども、最悪の一手を進める以外に何も抜け道を見つけられない。
ハッピー・エンドというもの(そんな平和的な響きすら相いれなくなってきている)はそもそも自分には存在していないのではないかと感じる。どんな風に進んでも、どんな結末になったとしても、笑って終えられることなんて何一つないんじゃないかと。最近は、悲劇を読んでもそれが悲劇なのかどうかわからないことが増えた。ただ単純にある人の別れが、死が描かれれば悲しいのかと漠然と疑う。それなら喜劇だって同じくらい哀しい。笑い飛ばしてしまえるくらいのくだらない話、必要のない紆余曲折が空虚さを際立たせる。
ピエール=オーギュスト・ルノワールは言う
「私にとって絵とは、好ましく、楽しく、きれいなもの…そう、きれいなものでなければいけないんだ。人生には不愉快なことがたくさんある。だからこれ以上、不愉快なものをつくる必要なんかないんだ」
生きる程に、その言葉の意味を分析し理解する程に、あらゆるものが便宜的なものでしかないと悟る。幸せだとか夢だとか、そういった美しい言葉で醜いものを覆い隠していることが、こんなにも簡単に露見してしまうことが空しくもなる。ひとりで立つことのできない意志が、原動力をもつ言葉をとらえ、その力を存続させる。その言葉が始めは自発的であった行動を次第に規定し始める。そうして人は言葉で表せる成果が欲しくて、本来の目的を見失う。
全ては、意識の訓練でどうにかなることばかりなのではないかと思う。思い込みで世界が動く。自分が興味を「持っている」というのも、「持ちたい」というのも同じ事だ。それはただの前後関係の違いに過ぎない。それに趣向や、適性が加わって方向性が生み出されていく。無から有を生み出すよりはもとあるものを育てていった方が賢明なのは言うまでもなく。
たくさんのことがわかればわかる程に、動けなくなる状態というのがある。まるでチェスのゲームで追い詰められているみたいに。頭の中であらゆる可能性を試してみるけれども、最悪の一手を進める以外に何も抜け道を見つけられない。
ハッピー・エンドというもの(そんな平和的な響きすら相いれなくなってきている)はそもそも自分には存在していないのではないかと感じる。どんな風に進んでも、どんな結末になったとしても、笑って終えられることなんて何一つないんじゃないかと。最近は、悲劇を読んでもそれが悲劇なのかどうかわからないことが増えた。ただ単純にある人の別れが、死が描かれれば悲しいのかと漠然と疑う。それなら喜劇だって同じくらい哀しい。笑い飛ばしてしまえるくらいのくだらない話、必要のない紆余曲折が空虚さを際立たせる。
2008/4/23 22:50
審美眼 文学
ヴァージニア・ウルフの「ダロウェイ夫人」を読んでいるのだけれど、始めに持っていたイメージをほとんどそっくりひっくり返されたという感じか。透明感のある文章で、夫人の視点から日常の些末な出来事が描かれていくという、淡々として抑揚の無いものかと思っていたら、かなり複雑に思える文章で、登場人物の頭に浮かんできたことをそのまま文書化しているのではないかと思うほど移り気な心情を描く。説明していることに、また別の情報が付け足され、そしてさらに…という。しかも、主人公のそれだけでなく、その相手方の方からも描かれる。
この頃は「ボヴァリー夫人」、「アンナ・カレーニナ」とどれも女性が主人公のものを読んできたけれど、古典のもので女性が描く女性を読むのはこれが初めてかもしれない。オースティンも読んだことがないから読んでみたいな。古典作曲家においてほとんど女性がいないのと同じように、女流作家の古典は少ない。だからか結構興味があります。
「この世界に悲劇はたった二つしかない。一つは欲しいものが得られないこと、もう一つは欲しいものを得てしまうことだ」
オスカー・ワイルドは素敵だと思います。カポーティに通じる部分が多々あると思う。高度な知性と、ナイフのように鋭い洞察力と観察眼、そして世界の切り取り方。物語の筋があまりに完璧に完結していて、奇異なまでの美しさを持つ。唯美主義だからというだけの理由のなのか、と疑いたくなる。何か秘密があるのではないかと。
この警句は、きっとこの先も事あるごとに思い出すことになるのだろうと思う。いまですら切実に感じるのだから。
今日の音楽:RADIOHEAD/THE BENDS
この頃は「ボヴァリー夫人」、「アンナ・カレーニナ」とどれも女性が主人公のものを読んできたけれど、古典のもので女性が描く女性を読むのはこれが初めてかもしれない。オースティンも読んだことがないから読んでみたいな。古典作曲家においてほとんど女性がいないのと同じように、女流作家の古典は少ない。だからか結構興味があります。
「この世界に悲劇はたった二つしかない。一つは欲しいものが得られないこと、もう一つは欲しいものを得てしまうことだ」
オスカー・ワイルドは素敵だと思います。カポーティに通じる部分が多々あると思う。高度な知性と、ナイフのように鋭い洞察力と観察眼、そして世界の切り取り方。物語の筋があまりに完璧に完結していて、奇異なまでの美しさを持つ。唯美主義だからというだけの理由のなのか、と疑いたくなる。何か秘密があるのではないかと。
この警句は、きっとこの先も事あるごとに思い出すことになるのだろうと思う。いまですら切実に感じるのだから。
今日の音楽:RADIOHEAD/THE BENDS
2008/4/22 19:48
ことのは 徒然
最近になって、「ライ麦」をもう一度読みたいな、と思うことが増えました。高校の時に読んで思ったのは、なんだか不満ばかり言っていて進歩がないなということだけだった。けれど、今はもっと何かを得られそうな気がする。
一度で理解できるもの(あるいはできたと思うもの)はやはり、それ相応の深みしか含んでいないのかもしれない。理解できない部分があるからこそ、魅力を保ち続けることができる。暗闇の中で、わずかに光るものは、明るいところのそれよりも何倍の意味をもつだろう?
そんなのは一般論か。
またこの頃は、ユダヤ人(ユダヤ系)作家に興味が出てきました。サリンジャーもそうだけれど、カフカだったり、オースターもユダヤ系ではある。それらの作家を思い浮かべると、作品の内容や文体などの要素を超えて、見えない部分でつながっているような印象が自分の中にあることに気が付く。
ドイツ語を学んでいることは、少なくともこの分野においては役に立つかもしれない。
大学には期待していないと思っていても、やはり時間割を見るとうんざりしてしまう部分が多い。これじゃただの語学学校に通っているみたいだ。言語のための大学だけど、本当にそれだけ。自分でやることでしか学ぶことは不可能だとは思うけれど、それにしてもここまで何も無いものかと。
万策尽きたとはまさにこの状態か。
そう思っていても、人生には何かしらの出来事が起こるからすごい。それでも、それらの出来事は死後硬直を早めているみたいにしか思えないときの方が多い。
何も考えずに能天気に生きようと思っても、気がついたらいつもの思考にもどっている。
自分自身から逃げ出すこと、アンナ・カレーニナはそれを切実なまでに求めて命を絶った。でもレーヴィンは…
切れ切れになる思考。いつだって同じようなことを書いてきたのだろう。
今日の音楽:RADIOHEAD/THE BENDS
一度で理解できるもの(あるいはできたと思うもの)はやはり、それ相応の深みしか含んでいないのかもしれない。理解できない部分があるからこそ、魅力を保ち続けることができる。暗闇の中で、わずかに光るものは、明るいところのそれよりも何倍の意味をもつだろう?
そんなのは一般論か。
またこの頃は、ユダヤ人(ユダヤ系)作家に興味が出てきました。サリンジャーもそうだけれど、カフカだったり、オースターもユダヤ系ではある。それらの作家を思い浮かべると、作品の内容や文体などの要素を超えて、見えない部分でつながっているような印象が自分の中にあることに気が付く。
ドイツ語を学んでいることは、少なくともこの分野においては役に立つかもしれない。
大学には期待していないと思っていても、やはり時間割を見るとうんざりしてしまう部分が多い。これじゃただの語学学校に通っているみたいだ。言語のための大学だけど、本当にそれだけ。自分でやることでしか学ぶことは不可能だとは思うけれど、それにしてもここまで何も無いものかと。
万策尽きたとはまさにこの状態か。
そう思っていても、人生には何かしらの出来事が起こるからすごい。それでも、それらの出来事は死後硬直を早めているみたいにしか思えないときの方が多い。
何も考えずに能天気に生きようと思っても、気がついたらいつもの思考にもどっている。
自分自身から逃げ出すこと、アンナ・カレーニナはそれを切実なまでに求めて命を絶った。でもレーヴィンは…
切れ切れになる思考。いつだって同じようなことを書いてきたのだろう。
今日の音楽:RADIOHEAD/THE BENDS
2008/4/20 21:50
百年 徒然
10日ぶりとは、結構久しぶり。
意外と自分をとりまく環境が変貌を遂げてきているような気がする。うまく言えないけれど。
そんな中で、結局自分を駄目にしているのは自分自身なのではないかとふと思い当る。一番理解不可能で、度し難い嘘つきみたいに思える時もある。
考えていたことが現実になってしまう。もしこれから起こることがわかっていたら、生きていくことなど不可能なんだろうなと漠然と思う。いや、もしかしたらわかっているのかもしれないけれど。
悲しい曲を弾きたいときに限って、適当に選んだものは明るい曲ばかり。そういえば、あんまり悲愴的なレパートリーは持ち合わせていない。
でもたくさんの曲を聴いていると、どれが胸が痛むほど哀しいか、どれが底抜けに明るいかなんてわからなくなってしまう。そして、そういった種類の曲なんて一つも存在しないんだということに気づく。何も根拠なんかないけれど。
体調が少し悪いからだろうか、もう考えない方がいいな。
今日の音楽はなし
意外と自分をとりまく環境が変貌を遂げてきているような気がする。うまく言えないけれど。
そんな中で、結局自分を駄目にしているのは自分自身なのではないかとふと思い当る。一番理解不可能で、度し難い嘘つきみたいに思える時もある。
考えていたことが現実になってしまう。もしこれから起こることがわかっていたら、生きていくことなど不可能なんだろうなと漠然と思う。いや、もしかしたらわかっているのかもしれないけれど。
悲しい曲を弾きたいときに限って、適当に選んだものは明るい曲ばかり。そういえば、あんまり悲愴的なレパートリーは持ち合わせていない。
でもたくさんの曲を聴いていると、どれが胸が痛むほど哀しいか、どれが底抜けに明るいかなんてわからなくなってしまう。そして、そういった種類の曲なんて一つも存在しないんだということに気づく。何も根拠なんかないけれど。
体調が少し悪いからだろうか、もう考えない方がいいな。
今日の音楽はなし
2008/4/10 17:52
raw 文学
最近は短編を読むのが好きです。今日も大学に行く途中、電車で大幅に足止めをくらい、どうせなら図書館にでも行こうと思い少し読んできました。
そこにはレイモンド・カーヴァーの「象」という短編集が置いてあり(かなり新しい)、その中の「使い走り」という物語を読みました。それは、ロシアの作家、アントン・チェーホフが死を迎えるという情景を基に作られていた。話の筋に関係することではないが、つい最近「可愛い女」などを読んでいたのですぐにイメージが湧いた。著者自身が病に倒れ、最後の短編となったこの作品では、彼は自分とチェーホフを重ねている。
解説を読むと、それ以上の意見なんて思いつけないなと思います。
その図書館にはハードカバーでしか発売していないジャック・ロンドンのものがあったので、今度また立ち寄ろうかなと思いました。長編だと分割しないといけないけれど、短編なら全然読み切れるから嬉しい限り。
短編つながりでいえば、村上春樹の「中国行きのスロウ・ボート」の中からいくつかを選んで読んだ。この短編集は出版社も違うし、作品の色としてどこか他のものと違うものを帯びているように思っていた。というか、カラーが強すぎるのかもしれない。初めての短編集ということで、試行錯誤の時でもあったのだろう。
だから、読み返すのもなんとなくすっと手が伸びていかなくて、今回久しぶりに敢えて読もうと思った。印象的なテーマが多かったため、筋を漠然と覚えていたから記憶をなぞるように読めた。
一番不思議に思ったのは、ここまで情景を喚起できる文章というのをどういう風に作り出しているのだろうということだった。大体の作家の情景描写においては、ただその情景を「こういう感じかな」と推測するだけだ。木の形が描かれていればそれを頭で作り出す、そして天気も付け加える…そういう感じだ。けれど、春樹の場合は、すでに自分がそこにいて経験したことがあるんじゃないかと思えるくらい鮮明に思い描くことができる。思い描くというか、思い出すみたいに。文章の重ね方が上手いのか、それとも比喩にあるのか、日本人だからということなのか、それともそれら全てのおかげなのか。
今日の音楽:ALANIS MORISSETE/MTV UNPLUGGED
そこにはレイモンド・カーヴァーの「象」という短編集が置いてあり(かなり新しい)、その中の「使い走り」という物語を読みました。それは、ロシアの作家、アントン・チェーホフが死を迎えるという情景を基に作られていた。話の筋に関係することではないが、つい最近「可愛い女」などを読んでいたのですぐにイメージが湧いた。著者自身が病に倒れ、最後の短編となったこの作品では、彼は自分とチェーホフを重ねている。
解説を読むと、それ以上の意見なんて思いつけないなと思います。
その図書館にはハードカバーでしか発売していないジャック・ロンドンのものがあったので、今度また立ち寄ろうかなと思いました。長編だと分割しないといけないけれど、短編なら全然読み切れるから嬉しい限り。
短編つながりでいえば、村上春樹の「中国行きのスロウ・ボート」の中からいくつかを選んで読んだ。この短編集は出版社も違うし、作品の色としてどこか他のものと違うものを帯びているように思っていた。というか、カラーが強すぎるのかもしれない。初めての短編集ということで、試行錯誤の時でもあったのだろう。
だから、読み返すのもなんとなくすっと手が伸びていかなくて、今回久しぶりに敢えて読もうと思った。印象的なテーマが多かったため、筋を漠然と覚えていたから記憶をなぞるように読めた。
一番不思議に思ったのは、ここまで情景を喚起できる文章というのをどういう風に作り出しているのだろうということだった。大体の作家の情景描写においては、ただその情景を「こういう感じかな」と推測するだけだ。木の形が描かれていればそれを頭で作り出す、そして天気も付け加える…そういう感じだ。けれど、春樹の場合は、すでに自分がそこにいて経験したことがあるんじゃないかと思えるくらい鮮明に思い描くことができる。思い描くというか、思い出すみたいに。文章の重ね方が上手いのか、それとも比喩にあるのか、日本人だからということなのか、それともそれら全てのおかげなのか。
今日の音楽:ALANIS MORISSETE/MTV UNPLUGGED
2008/4/7 0:36
反証可能性 徒然
世界の狭さとは一体何なのだろう。僕は結構言われます、「世界が狭すぎるよ」。
でも自分としてはこれから何を経験しても、どんな社会集団に属しても、今持っている価値観や習性だったりを変えることはできないんじゃないかと漠然と感じている。むしろ、そういう(自分とは別の性質の)所に属するたびに、柔らかかった部分が固まっていってしまう様にすら感じられる時がある。バイトでもそうだったし、サークルでもおそらく。
人はみな自分だけの領域というのを持っていて、そこが一番の聖域だと思っている。それはそれでいい。けれど、他人のそういう部分を自らの価値観で計って、別のものを押しつけるような人間に、僕はなりたくない。何でわからないんだろう、と思うときがある。何でそんなにすべてを把握できていると思いたいのだろう、と。一を見て十を判断するような人間が多すぎる。
…しかしあるいは、今持っているものを全部捨てることができたのなら、世界を広げることは可能であるかもしれないけれど。
最近は色々なことに反感を覚えすぎるな。
黙っていると、愚鈍そうに見えるのかもしれない。
今日の音楽:BEETHOVEN/Op.30
でも自分としてはこれから何を経験しても、どんな社会集団に属しても、今持っている価値観や習性だったりを変えることはできないんじゃないかと漠然と感じている。むしろ、そういう(自分とは別の性質の)所に属するたびに、柔らかかった部分が固まっていってしまう様にすら感じられる時がある。バイトでもそうだったし、サークルでもおそらく。
人はみな自分だけの領域というのを持っていて、そこが一番の聖域だと思っている。それはそれでいい。けれど、他人のそういう部分を自らの価値観で計って、別のものを押しつけるような人間に、僕はなりたくない。何でわからないんだろう、と思うときがある。何でそんなにすべてを把握できていると思いたいのだろう、と。一を見て十を判断するような人間が多すぎる。
…しかしあるいは、今持っているものを全部捨てることができたのなら、世界を広げることは可能であるかもしれないけれど。
最近は色々なことに反感を覚えすぎるな。
黙っていると、愚鈍そうに見えるのかもしれない。
今日の音楽:BEETHOVEN/Op.30







