2008/3/21  0:26

草稿  徒然
色々と難しいことはあるみたいです。まとめて言ってしまえばそういうことになってしまう。

今日(もう昨日です)は同窓会で(結局31人来たのですが)、楽しかったです。満腹をちょっと上回るくらいまで食べて、卓球して。
みんなはやはり前と変わらなく元気そうに見えたし、何といっても懐かしさが感じられる。「そういえばこの人こういうリズムで話してたな」とか、「あー、この手の発言よくしてたな」というように、だんだんと昔の感覚を取り戻していった。一緒に学校生活を送る上で、戸惑わされたり、疎ましいと思うこともあったそういう言動が親しみを持って受け入れられる。そして、ある種の親しみさえも感じられる。それは嬉しくもあり、それくらい時間が経ったことの証明であるのかもしれないとも思った。
それに加えて、自分のことを(少なくとも3年間一緒にいたわけだから)多少なりとも知ってくれている人がいるのは純粋に好ましいことなのだと思うようにもなった。結局人間というのは相対的なもので、対象がいないと自分が自分であるということの一端を感じるのも難しくなってしまう(記憶されている自分がたとえ間違ったものであったとしても)。そういうのを自分に喚起してくれ、そしてそういう記憶みたいなものを共に親密に感じられるのは幸せなことだと思いました。


何だか書きたいことが少しあるのですが、久しぶりに真面目に文章を書こうとしているので少々言葉の選び方がわからないです。でも、意欲があるうちにメモ程度にも書くことは好ましいことであろうと信じる。

芸術と資料の境目について、また個人的感動と学問の関係性について。
これは個人的によくぶつかる問題なのです。少し前から進路について、「こうなるかな」というような一種予感めいたものを感じていて、その先のことについて考える場合によく湧いてくる。
自分にとっての芸術というのは、人を様々な感情をもたらすことができるもののように思う。何かの情景を喚起させ、共にどこかを旅することができれば、いくつもの感情を思い起こさせることができたりもする。それは力というものを有しているように見える。逆に、資料というのはひとまず精巧さや技巧に驚きはするけれど、心動かされることはない。ただ指標の歴史を作ることに、一役買っているだけのように思う。
そして、そういったものを判断する個人的な価値観が前提にあるからこそ、個別的な感動が生まれてくる。そうしてそういう心動かすものについて、追究したり、研究したいと思う。
けれど、そういう個別的なものが、学術的研究によって解明された時に果たして普遍性を得られるのかどうかが全く判然としません。学問というのは、ある一定以上の確かな普遍性をもってある一定以上の人々に賛同を得られなければ成立しえない、相対的なものであると自分には思えるからです。つまり、そこの個別性から一般性へのシフトがうまく行われなければ、唯の自己満足で終わってしまうわけなのです。

・・・とりあえず終わろう。明日もドイツ語とバイトだ。もうあと3回くらいでバイトも終わりです。だから頑張ろう。


今日の音楽はなし

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