2008/4/27  1:44

耽溺  語り
オスカー・ワイルドの「ドリアン・グレイの肖像」を読んで思ったのは、美のための美、芸術のための芸術、そういうものが自分として一番納得のいくあり方なのかもしれないということだった。それは正に唯美主義的な考え方だけれど、自分の音楽や絵画の趣味にはその側面が多くみられることは確かだ。

ピエール=オーギュスト・ルノワールは言う
「私にとって絵とは、好ましく、楽しく、きれいなもの…そう、きれいなものでなければいけないんだ。人生には不愉快なことがたくさんある。だからこれ以上、不愉快なものをつくる必要なんかないんだ」


生きる程に、その言葉の意味を分析し理解する程に、あらゆるものが便宜的なものでしかないと悟る。幸せだとか夢だとか、そういった美しい言葉で醜いものを覆い隠していることが、こんなにも簡単に露見してしまうことが空しくもなる。ひとりで立つことのできない意志が、原動力をもつ言葉をとらえ、その力を存続させる。その言葉が始めは自発的であった行動を次第に規定し始める。そうして人は言葉で表せる成果が欲しくて、本来の目的を見失う。
全ては、意識の訓練でどうにかなることばかりなのではないかと思う。思い込みで世界が動く。自分が興味を「持っている」というのも、「持ちたい」というのも同じ事だ。それはただの前後関係の違いに過ぎない。それに趣向や、適性が加わって方向性が生み出されていく。無から有を生み出すよりはもとあるものを育てていった方が賢明なのは言うまでもなく。


たくさんのことがわかればわかる程に、動けなくなる状態というのがある。まるでチェスのゲームで追い詰められているみたいに。頭の中であらゆる可能性を試してみるけれども、最悪の一手を進める以外に何も抜け道を見つけられない。
ハッピー・エンドというもの(そんな平和的な響きすら相いれなくなってきている)はそもそも自分には存在していないのではないかと感じる。どんな風に進んでも、どんな結末になったとしても、笑って終えられることなんて何一つないんじゃないかと。最近は、悲劇を読んでもそれが悲劇なのかどうかわからないことが増えた。ただ単純にある人の別れが、死が描かれれば悲しいのかと漠然と疑う。それなら喜劇だって同じくらい哀しい。笑い飛ばしてしまえるくらいのくだらない話、必要のない紆余曲折が空虚さを際立たせる。

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