2008/5/6 23:32
もし 文学
最近ぜんぜん書いていませんでした。何かを書いても、途中で意味が無いなと思ってばかりです。今だって、その思いがちらついています。
結局自分は同じことを、違う言葉で言い換えているだけに過ぎないからです。
この後のものは2日前くらいに書いたもの。
ウォルター・ベンヤミンの翻訳についての文章を読んでから寝ようとしたら、眠れなくなった。難解な表現が多く、理解できているのかいないのか狭間にいる感じ。原文を読んだ方がわかることができそうだ。「合目性的的」のような訳は嫌いです。的的というのは、分かりやすい言葉の下で使うのは良いけれど、複雑な文脈の中で用いるのはあまりよろしくないのでは…と。ただ理解できない事からくる当てつけであるかも知れないけれど。
ドイツ語を大学でやっているので、卒業論文、それに附随するゼミもやはりそれを使いたいなと若干は思うのは避けがたいことです。たとえ興味の範囲がそれているということを自覚しきっているとしても。かといって、アメリカ文学のみというのも違うし、まして国文学とかに行ったら酷いことになることは請け合いだろう。国文学で興味があるのは夏目漱石ぐらいだからです。村上春樹は国文学という範囲だけで処理はできないだろうし。
だから翻訳とか、テクストに関することをやれば良いのかも知れないと思った。ベンヤミンも読めそうだし。駄目そうだったら比較文学にすればいいだけのことだ。
今日(5/5)もベンヤミンを読んでいて、いいなと思ったものがあったので載せます。
―何が「解決」されるのだろう?これまでの人生を振り返ると、問題と言う問題は、ぼくらの眺望をさえぎりかねない木立のように、そこに残されたままではなかろうか。その木立をすっかりとり払ってしまうことはおろか,間伐して光を入れることすら、僕らはほとんど考えない。僕らは歩みつづけ、木立を遠く後にする。遠くから見れば、その木立は確かに全部見渡せはするけれども、あいまいな、影のような、そしてそれだけにますます謎めいた、絡み合った様相を呈してくる。―
―…and happy indeed I was, if pleasure be happiness.―
オスカー・ワイルドの"HAPPY PRINCE”ででてくる文句だ。宮廷の中で何も不自由もなく暮してきた王子が、金箔を塗られた像として貧しい人々のいる町を見下ろしていう言葉。もし幸福というものが喜びならば、か。
今日の音楽:サディスティック・ミカ・バンド/黒船
結局自分は同じことを、違う言葉で言い換えているだけに過ぎないからです。
この後のものは2日前くらいに書いたもの。
ウォルター・ベンヤミンの翻訳についての文章を読んでから寝ようとしたら、眠れなくなった。難解な表現が多く、理解できているのかいないのか狭間にいる感じ。原文を読んだ方がわかることができそうだ。「合目性的的」のような訳は嫌いです。的的というのは、分かりやすい言葉の下で使うのは良いけれど、複雑な文脈の中で用いるのはあまりよろしくないのでは…と。ただ理解できない事からくる当てつけであるかも知れないけれど。
ドイツ語を大学でやっているので、卒業論文、それに附随するゼミもやはりそれを使いたいなと若干は思うのは避けがたいことです。たとえ興味の範囲がそれているということを自覚しきっているとしても。かといって、アメリカ文学のみというのも違うし、まして国文学とかに行ったら酷いことになることは請け合いだろう。国文学で興味があるのは夏目漱石ぐらいだからです。村上春樹は国文学という範囲だけで処理はできないだろうし。
だから翻訳とか、テクストに関することをやれば良いのかも知れないと思った。ベンヤミンも読めそうだし。駄目そうだったら比較文学にすればいいだけのことだ。
今日(5/5)もベンヤミンを読んでいて、いいなと思ったものがあったので載せます。
―何が「解決」されるのだろう?これまでの人生を振り返ると、問題と言う問題は、ぼくらの眺望をさえぎりかねない木立のように、そこに残されたままではなかろうか。その木立をすっかりとり払ってしまうことはおろか,間伐して光を入れることすら、僕らはほとんど考えない。僕らは歩みつづけ、木立を遠く後にする。遠くから見れば、その木立は確かに全部見渡せはするけれども、あいまいな、影のような、そしてそれだけにますます謎めいた、絡み合った様相を呈してくる。―
―…and happy indeed I was, if pleasure be happiness.―
オスカー・ワイルドの"HAPPY PRINCE”ででてくる文句だ。宮廷の中で何も不自由もなく暮してきた王子が、金箔を塗られた像として貧しい人々のいる町を見下ろしていう言葉。もし幸福というものが喜びならば、か。
今日の音楽:サディスティック・ミカ・バンド/黒船







