2008/9/27  22:48

system  文学
カメラというのはとても奥深い世界なのだな、と若干驚きつつ思う。というのも、CANONのデジタルカメラ講座的なものをサイトで見たからなのだけど。
僕はいつも写真を載せるときには、特に何もせずに載せる。時々、構図や雰囲気は良いのにあまりにも暗かったり明るすぎたりするとき(そして写真としてでなく面白いイメージになりそうな場合)には少し修正したりするけれど、その他はあまりしない。
それに撮るときにも、ほとんどの機能がオートになっているわけで、大雑把な色合いが気に入ればそれで撮ってしまう。絞りだとか焦点距離だとかシャッタースピードだとか、今まで少しくらいしか(いや、少しも)頭に入れたことがない。時おり、どの速度ならどういう出来になるのだろうと思って変えてみても、あまり違いがわからずに放りだしてしまう。露出は調整するけれど、それって基本以外の何ものでもないですよね。

自分はほとんどすべてのことについての体系的・総合的な知識というものに欠けている。というかそういったものを作り上げるシステムが不完全である、といった方が正しいかもしれない。それはいつも直さなくてはいけない部分だと思っているのだけど、ここまでそうやって生きてくるとなかなかそれも辛いところがある。
ものごとの根底から理解できないといった場合はさすがに一から少しずつその方法を学んでいく。けれどだんだんとその全貌が霞んできたくらいの道程にくると、途端に正規の道をドロップアウトしてしまう。そこからは(いささか無意識的にではあるにせよ)ひたすら勘で突き進む。何故かというと、一番おいしい果肉の部分(それは演奏であったり、読書の感情的な部分に共鳴することであったりするのだけど)にすぐに手を伸ばしてしまうから。音楽で言うと、完全に楽典を理解していないのに楽譜を見て弾いてしまうところとか、アドリブをする際どんなアプローチがあるか、また有効かということを学ぶ前に弾き始めるといったところ。実際に語学でも、その他のどんな勉強でもそれはかなりしがちな傾向ではあったのだけど。
そして一番いけないのは、そういった性質を改善することなしに行ける道というのを選び過ぎているということがある。多少(本当にほんの少しだけど)行こうか考えたことのある音大についても、それが言える。もしもピアノの先生がそういった(体系的で実用的な)教え方をしてきていたら、あるいは彼らと戦えると思ったかもしれない。

20歳の転機として、もう少し秩序だった頭を作れればいいとは思うけれど。


昨日は久しぶりに村上春樹の本を読み返した。
刊行された当時、高校生だった時に一度読んだ「アフターダーク」。これは文体もかなりニュートラルになっていて、まるで映画の脚本を読んでいるような感じがしてくる描写となっている。「カメラの視点」というのをわざわざ記述までしている 。まるで映画を撮っているところを描写しているかのように。春樹の長編小説ではいままですべて(多分すべてだと思う)一人称で語る登場人物がいたのに、今回はそれが全く排除されている。この作品の一つの大きなテーマであるように思える、こちらの世界とあちらの世界。それがうまく、どの登場人物にも感じられるように出来ている。はりぼてのぺらぺらの壁とか、そういった描写で。すごく整理されていて、秩序立っているという印象を受ける。そして、この次の作品の序章、接続(あるいはそれを描くための起爆剤)であるような印象がひしひしと感じられる。実際に、次の作品は今までで一番長い作品になるということをインタビューで答えている。
そういったことはともかくとして、以前は変わってしまったスタイルにそれ程馴染めないかなと思っていた。けれど、一度時間が経ってから一文一文咀嚼して読んでみると、全然悪くない作品だと思った。いつものようにおもしろい小話も好きになったし、話の多義性も謎を残したままで、それが深みを増していて良いと思った。というか、そういったものよりも結局のところ春樹らしさというものを感じたからかもしれない。今までにあったらしさというか、今までになかったらしさみたいなものを。


今日の音楽:Pat Metheny/Secret Story

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